「死」の教室から「生」の教室へ/熊倉軽聡(ヨーゼフ・ボイス ハイパーテクストとしての芸術)

「私たちの人生の目的とはまさに幸福の探求ではないでしょうか。」(ダライ・ラマ

3.
 シュタイナーは、リアリストである。彼は「神秘主義者」ではない。彼の「霊視」とは、単に現実を、世界を直視しているにすぎない。彼の「神秘主義的」言語は、例えばある科学が世界を描出するのにそれに特有な言語を発明するのと同様、発明されたリアリスティックな言語にすぎない。その「神秘主義的」装いにだまされないこと。本人も言うとおり、それを思想として、科学として捉えること。(彼は「胡散臭い」芸術家ではない)。

4.
 シュタイナーは、昨今人々の人相が画一的になってきたとして、ある友人の作家の言葉を挙げている。

今日の社会における最も顕著な現象の一つは、人々がはっきりとした人相を示していないということです。ヘルマン・バールがベルリンでの公演の中で語っていた言葉は、実に本質をついています。彼が言うには、すでに前世紀の九十年代に、ライン地方やエッセンあたりの街頭で、工場から出てきた人たちに出会った時、いつも次のような感情を持ったというのです。「誰が誰だかさっぱり区別がつかない、まるでただ一人の人間が複写機にかけられて現れているようだ、互いに区別がつかない」


 なぜ人々はこうも画一的になったのか。シュタイナーによれば、それは子供の時から「死んだ」概念を多く植え付けられたからだ。「死んだ」概念とは、(例えば「ライオンとは……」と)定義づけを行うときの概念であり、その耐えざる「暗記」、すなわち頭への植え付けが、人間たちの生の特異性を消去し、互いに相似たいわば生きながらの「死者」を作り上げていく。
 この「死」とは何なのだろうか。それは、資本主暴が内包する死ではないだろうか。資本主義が人間に要求する概念とは、知ではなく情報である。資本主●は、経済合理性という唯一の思考のOSの中で、ある目的に向けて最大限の情報をいかに効率よく処理するか、その能力、速度の競争を求める。資本主義的世界において「頭がいい」とは、この「情報処理」のパフォーマンス度の高さに他ならない。しかし、それは同時に少しずつ「死んで」いくこと、「死」の微分でもある。資本主義の死は、思考の、そして生のエントロピーを消していく。経済合理性という唯一の思考の回路へと、思考の墓場へと、我々を生き埋めにする。そこでは「思想」でさえ、「死」んでいく。現代の「マニュアル」本の氾濫。「情報処理」としての「現代思想」。そこでは、「フロイト」というソフト、「サイード」というソフト、「ドゥルーズ」というソフトが走っているだけだ。
 そこには思考を思考する思考、あるいは思考の<外部>を思考する思考というものがない。「生」へと自らをさらす思考がない。死んだ魚のような目をしている昨今の多くの日本の学生たち。思考の死しか搭載していない頭脳たち。そこに、少しでも生の特異性を入力したまえ。彼らのほとんどは「フリーズ」してしまう。

『ヨーゼフ・ボイス ハイパーテクストとしての芸術』