みんな、たのしく生きていてほしい。

Stellaの'Care'を使っているんだけど割といいです。何て言うか安心する。
それは私が彼女のことを好きだからっていうのも大きいのかな。
ほんと化粧品は夢を売るものだと思います。



言葉とか、色とか、形とか、質感とか。
色々な「ことがら」を集めて紡いで、そういうものにしてリリースしていきたい。
たとえひとりでも。
でも多分、ひとりじゃないこともなんとなくわかっている。
だから努力と感謝が必要なんだと思う。

mellow yellow mix.

eito-torakkusu.(←ジャップ風)



メローイエローっていう清涼飲料水(炭酸?)があって、それは今で言ったら吊るし上げられそうな人工的な黄色の飲み物で、当時小学3年生くらいの私は、これで布も染織できてしまうってことは、胃に色がついてしまうということなんだよ、怖い飲み物なんですよ、みたいな話を聞いて、ありえないこんな飲み物、と思ってました。
実際そういう人工的な色の飲み物ってもう巷に存在しませんが、メロンソーダだけは、いつの時代もドリンクバーにあったりダイナーにあったりしますよね。ナンデあれだけ特別扱い?
そして私もブランキ−とか聴いてた多感な時代にメロンソーダとチリドッグなんかを頼んで、胃の着色についての意識とかどうでもよくなっちゃったり。

都合いいなって思います、まったく。

アンジェロ・フィギュスの卒展が10年前という事実に驚愕


行ってきましたアントワープ・ファッション展。結論は2つで、まず展示が信じられない程内容うっすいです。それは私の好みがここから全く動いていないというところや、アントワープ・ファッションの歴史(アーカイヴ)が浅いというところにも起因することなのかもしれないんだけど、普通に点数少なくね?ティルマンス展のときはオペラシティ広いなーと思ったもんですけどね。
それから、よく考えたらこのタイミングでアントワープ・ファッションをフィーチャーしていることの意味って何だろう?ってのが全然わからない、ということ。今年が「日本におけるベルギー年」みたいなことなんですか?例えば。別にマルジェラが盛り上がっているわけでもないだろうし、ヨウジやギャルソンがどーにかなってるわけでもないだろうし、え?どしたの?みたいな。

まぁそんな感じで。

私はアントワープに凄く思い入れがあるから、やっぱり期待しちゃいますよね。こんな内容でやるなーー!!!みたいに思ってしまう。だって数点の服と、過去のコレクションを抜粋した映像が何点かで終了ですよ?全然、デザイナーたち(や王立アカデミーのみなさんとか)の協力があってのエキシビジョンと思えない。アントワープ知らない人が「書いてみた」卒論読んでるみたいでした。トークショーもしかりで、まぁ栗野さんはさすがだなと思いましたが……。

退屈。でした。

あと、ほんとにたぶん情報量が少ないからだと思うんだけど「アントワープ・シックスとそれ以外」みたいな括りになってるのが非常に気になりました。第二世代というか、ヴェロニク、ユルギ、A.F.、W&LTみたいな世代と、クリス・ヴァン・アッシュとかブルーノ・ピータースなんかをまとめないでくれる?と思ってしまう。

ただ自分のアントワープ熱というか、ああ私やっぱりこれが好きなんだなって自覚させられたことは確かで、ヴェロニクのファーストコレクションとか、A.F.の「寝たままの形の服」の映像が見れたりだとか、そういうのは単純に嬉しかったです。あと昔のラフ・シモンズとかね。ラフはすっかりおっさんになって、ジル・サンダーで再評価?されているけれども、実際エディ・スリマンより功績あるんじゃないのか?今日びの男性像みたいなのの構築にあたり。
個人的にはラフ&ヴェロニクのカップルってだいすきだったけど。
そう、ラフはゲイじゃないってところもいいです。(もちろんゲイが嫌いとかいう話ではないです、好きなひとはいっぱいいる)

私がヨーゼフ・ボイス好きなのもこの人たちによるところが大きいですから。
何かトークショーで「アントワープのコンセプチュアルなところが日本人にフィットした」とかいう話題になっていた割に、そういう背景、例えばA.F.のヨーゼフ・ボイスとか、アンのパティ・スミスとか、ヴェロニクの少女性+ゴシック(NW)とか、そういうところに一切触れていないってのはほんとに信じられない。
あとはもちろんインゲ・グロナールとか、それからアトリエ11やウッタース&ヘンドリクスとか、服以外の人たちを取り上げてほしかった。
帰り成城石井で、弔いの意味を込めてコートドールのチョコを思わず購入。



しかしこの本がほんとうに欲しい。今なら1万くらい平気で出します。

デザイナーの条件/リンダ・ロッパ(繊研新聞)

優秀なデザイナーに必要なものは?
「時間、集中力、批判力、研究熱心さ」
「時間をかけてじっくりと服を作り、やりたいことに集中できる環境にいるか、批判精神はあるか、様々な文化に精通しているか」

みずうみ

みずうみ (新潮文庫)

みずうみ (新潮文庫)

ひさびさに彼女の本を買いました。
ばななはスピリチュアル要素が高めだとよく言われるけれども、あんまりそうは思わないというか……何なんですかね。幽霊とか占いとか宗教みたいなのが出てくるからそう捉えられてしまうのかな。

何かのシンクロ、みたいなことがある相手とそうじゃない相手が居る、と私は思っていて、それはある意味当たり前のことなのかもしれないんだけれども、あるからといって運命を感じたりしてしまうと、そこには情けない勘違いとか願掛けとか、期待とか絶望とか、下らないものがくっついてくることがある。それについてたまらない嫌悪感を持っています。

結局はひとはひとりだし、また決してひとりではないということなのかなと思う。
だから何を大切にして生きるか、みたいなものがぶれないひとは素敵だし、私もそうありたい。

人の大変な話を聞くということは、もう、お金をもらったのといっしょで、絶対にそのままではすまされないよ。聞いたという責任が生じてしまうの。


ただ好きでいるっていうことは、なかなか簡単なことではない。

33の3R

いわゆるエコの流行っていうのは、手を変え品を変えで、結構続いている(ETHICALって言葉はあんまり浸透しなかったですね)。
そういうものに触れるとき、基本的には共感よりも吐き気のほうが多かったりするのだけれども、それなりに無関係ではいない立場としては、やっぱりみんな面倒くさくて飽きっぽいんだなー、というふうによく考える。

ICCの季刊誌、Inter Communication(これ面白いね)の「アートと社会のエコロジー」って号があるんですけど、その中に、今のエコの流れは「エエカッコしいの人々が大勢いた、お気楽な時代があったよね」って思い出されるときが来る、みたいな記述があって、ほんとうにそうだなと思うんですね。

また「海のふた」の話になってしまうのだけど。

なんかこう……やっぱり時を経て、古くなるものとならないものがあって、例えばデュシャンとかボイスなんかは後者だと思うんだけど、今のエコは前者だなーと思ってしまう。残念ながら。




そんな中で、エコとかリサイクルとか環境保護とか雇用の創出とかそういう枕詞が付いちゃうと3割減でみてしまうオレなんですが、ただでさえ雨後の筍の世界、そーすっと見落としてしまうこともあったりする。

例えば最近知ったこちらのブランドとか。
ストーリーは、ハギレを使った……みたいなことで、下手すると、reduceの「re:du」なんですかー。へー。みたいなとこで終わってしまいそうになるのだけど、やってるご本人とお話して、丁寧にものを見ると印象が変わる。

あくまでも服とか布にこだわっていること。
「変えたい」と思っていること。

あと根本的なところで、もしかしたらWEBではわからないかもしれないのだけど、配色と素材感が絶妙なんですね。
何もかもを取っ払うと素直に素敵なブランドだし、そういうところじゃないと、もう残っていかないんじゃないかな、と思います。ボンボンとカゴにとどまらず、色々なものを見てみたいなー。

ATAKなんかを見たり聴いたりするといつも思うのだけど(そしていつも書いていることなのだけど)、開かれている、というのは本当に重要で、そこは忘れないようにしたい。いつもそう思います。